ここにいることの現実感の欠如。

自分がいなくなれば、皆が幸せになれるのではないかという、

傲慢という名の人生からの逃避、逃亡への憧れ。

再発していることは、もうわかっている。隠し切れない。

それでも、共存してゆく道を模索して歩く。

泣いたり、笑ったりして。つまらなければ、つまらない顔をすればいい。

なにも隠すな。ありのままであることを、強く信じて。

優しさと弱さを履き違えないように。信念はいつも自分の中にあるのだから。

自問自答を何度も繰り返しながら、人と人の繋がりをいつだって、信じて、信じて。

その果てになにがあるか、誰も知らない。

ただ、歩いて、歩いてゆく者だけに見えるもの。

私は、まだまだ、学ばなければならない。

生きることを学ぶのだ。

美しいもの、美しいひと、美しい場所、美しい暮らし。

ほんの一瞬であっても、私は見たい。

歩かなければ、辿り着かない。歩いて、歩いて。歩いてゆくのだ。

コメント

nophoto
タケシ
2006年4月13日23:45

歩いて、歩いて。戻って。前に、後ろに、とにかく進む。
停止のゼロでなければ、釣り合っているゼロは許されるのではないかと最近思うようになったよ。

「私は見たいのだ」何を見たいのか、わかっちゃいないけど。

いろんなことに首を突っ込んで中途半端だといわれても、
首すら突っ込まず何も知らずに過ごすことは選びたくないのだょ。

生きることを学ぶ、良い言葉だね。
やっぱりきさらぎちゃんは色んな言葉を持っていると思うタケシなのでありました。

きさらぎ
きさらぎ
2006年4月20日13:48

>タケシちゃん
お返事遅くなりましたが、これ書いた後、約1週間の間
「救いはある」そして「まだ歩ける」と心底思いました。

タケシちゃんのこのコメントもそのひとつ。
遠い、遠い場所にいるのに。心はいつもそばにあるような。

本当の意味で「繋がる」ということを、
タケシちゃんには、いつも感じています。

ホントにいつもありがとうね。